「一般的という感覚」

2014/09/16

抽象的な話ですが、
一般的、当たり前、常識、平均、普通、相場、
それぞれ意味は違いますが、僕達は無意識にいろんな場面で
一つの物差しでモノゴトを比較・評価する事があります。

先日旭川に行った時のこと。
同行者が当地で入ったいくつかのお店の接客態度が良くない、と言う場面がありました。
いくつかのお店でそう感じた人にとっては、これだけで旭川のお店のほとんどは
接客が良くないだろうというイメージが付いてしまいますね。

しかし、良い・良くない、という基準は個人の感情ですし、
何に対して良くないかというと、その個人の良し悪しの基準が作られた場所、
大抵の大阪のお店の接客に比べて良くない。
という事になります。
(大阪のお店は他の地方に比べてフレンドリーだと言われます。もちろんそうでないお店も多いです。)
他の地方の人から見れば、そんな接客も普通かもしれません。
そんな接客サービスも方向性を間違えると、今度は過剰だと言われます。

普段の生活で当たり前だと思っていることは自分の中にあるものではなく、
自分の住んでる場所、所属しているコミュニティ、普段見ているメディアから作られていきます。
当たり前だと思っていることは実態が無くあやふやなこともありますが、
モノゴトを判断する時に比較してしまう対象でもあります。

無論、僕達プロダクトやサービスを提供する側は、否応なく比較される側にいます。
何か発信する時には、その比較される対象である当たり前な事、
その根拠はどれほど盤石な事なのか、どれほどあやふやな事なのかを見定める必要があります。
そうすると、他と比較されない事ができたり、比較されない場所に行けたり
もっと別の切り口が見えてくると思います。

普段の生活で比較する側も、一般的だという感覚の根拠をちゃんと考えると、
もっとモノゴトの良い面が見えてくるはずだと思います。

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白樺林の周りで育った子どもは、木の絵を描く時に、白い木を描くのかもしれませんね。